予想もつかないことが起きました。当時は、全く気が付かなかったことが、目に入るようになったのです。不思議なことですね。人間というものは。言葉を言い換えれば、いい加減なものです。人間は勝手なものだということを改めて認識しました。

私たちにとっては、実に恵まれた散歩道で、季節を感じ、自然を感じ、楽しい時間なのですが、住宅地から離れて、林の小道に入ると、ゴミの不法投棄、ゴミのポイ捨て、レジ袋に入ったままでポイ捨て。ビール缶のポイ捨て。ビール缶はブランドの金麦があちこちに捨ててあるので、同 一人が車で、通勤途上に飲み終わった空き缶を窓の外へポイ捨てするのでしょう。高い確率で飲酒運転が想像できますが、間違いなく言えるのは、同じブランドのビールの空き缶が、通りすがりに捨ててありました。

人の目が付きにくいところへ、ゴミを捨てる。

昔、この道路をジョギングで毎日走っていたことがあります。その時は、今日は、調子よく走れるか?今日のコースを何分で走れるか?ジョギング終わったら、シャワーを浴びて、今日の仕事のことがよぎったものでした。

ジョギングの時も、今も道路の状況に変わりは無いはずです。昔も今もゴミのポイ捨てがあったはずです。でも、ジョギングの時は、道路のあちこちにあるゴミのポイ捨てに、気が付くことはありませんでした。目に入っても、気に留めることが無かったというのが正しいと思います。

自然を感じ、季節を感じて散歩道を見ると、ゴミが目に入ってくるのです。私という人間が変わったわけでもありません。多少年は取りましたが、同じ人間です。

変わったのは、見ているときの、状況、心の持ち方、自然に対して、多少でも感謝の気持ちが出てくると全く目に入るものが違ってくるのです。冒頭に申し上げましたが、ジョギングしているときに、このような見方が起きることは予想もしていません。それで、つくづく感じるのです。人間なんて本当にいい加減なもので、状況、環境によっては、まさに自分本位で、勝手なものです。目に入っているのに、気が付かないのです。

今回は、散歩道に教えられて、気が付くことができましたが、気を付けることは、できるだけ早く、教えられたり、教えたりすることができれば、ずいぶんよくなるだろうと思ったのが実感です。

毎日、利用させてもらっている散歩道がこんなに汚されては、散歩道に申し訳ない。このゴミが環境を汚し、一部は、海に流されて、海を汚し、環境破壊につながっていきます。

散歩道を利用させてもらっている以上、散歩道に感謝をしている以上、お返しではありませんが、散歩道をきれいにしなければならない。と思って、散歩道のゴミ拾いをするようになりました。

不思議なもので、散歩道のゴミのポイ捨てが目に入るようなると、街中であろうと、田舎町であろうと、ゴミのポイ捨てが目に入るようになります。

散歩のときに、ゴミ袋とゴミを拾うトングを持ってゴミを拾います。

これが、私たちの散歩するときの格好です。トングはどのようなものが使いやすいか?不燃物と可燃物の袋をどうやって持つか?

あまりにもゴミが多いときは、とりあえず、ゴミ袋に入れて、後で、車で取りに来ます。車のトランクに入れて、持ち帰り、家庭のゴミと一緒に分別して出します。家庭ごみではないですが、ゴミの回収の方には、大目に見てもらっていると勝手に判断しています。

ゴミ袋にいれて、車で取りに行くと、その間に、カラスが食い散らかして、ゴミ袋の短時間の放置も注意しなければならないことを感じました。

こうして、散歩道から教えられて、ゴミとの付き合いが始まり、ゴミのポイ捨ては、自然に対しての人間の不遜そのもので、このままにゴ。ミを自然に押し付けると、自然から、とんでもないしっぺ返しを受けるような気になってきました。

人間の文明度は、ゴミのポイ捨ての量で決まるのではないだろうか?本当に文明が発達した国は、ゴミのポイ捨ては無いのではないだろうか?発展途上国できれいな国を見たことがありません。ゴミ山をあさって、金になるものを探している国はやはり文明度は低く、環境の汚いこと、汚い理由のほとんどがゴミ。

日本を世界一文明度の高い国にするためには、ゴミのポイ捨てが全くない国になることが一番の近道ではないかと思うようになりました。ゴミのポイ捨てと人間性とは密接な関係があるような気がします。

このゴミのポイ捨てと人間性については、カテゴリー「ゴミのポイ捨てと人間性」で詳しく考えてみたいと思います。

ゴミのポイ捨てのない国、これは、世界一きれいな国になります。それであれば、これは、立派な観光資源になりえます。世界の国から、街にも、村にも、ゴミが一つも落ちていない国、日本を、興味を持って見て回ってくれるのではないでしょうか?

散歩道に感謝することで、この考え方に至り、その実現に、微力ではありますが、行動を始めます。