いつも使わせてもらっている散歩道をきれいにするために、まず、私たちにできることは、ゴミ拾いです。

道路は、県道か市道か調べていませんが、法的に言えば、管理者のいる場所や道路を勝手に手を加えていいのかという融通の利かない、頭でっかちの、法律に外れたことはすべて悪という考えの人もいます。

これらの人は、法が絶対であって、法を破ることは一切認められないという石部金吉みたいな人です。この現代にも居るのです。ニュースで事故や事件を見るたびに、何と多い石部金吉がいるのか、驚きます。驚愕ものです。

法律は、人の幸福と安全のために作られたことを忘れて、法律そのものを絶対視するのですね。人の幸福や安全と法律とどちらを優先するかというと、選択を迫られたときは、私は、人の幸福と安全を第一義に取ります。それから、人の幸福や安全に対して、そぐわなくなった時代遅れの法律を変えればいいことです。

ゴミを拾うことは公道に対して手を加えるという見方もあるでしょう。一部の外国人の考え方では、道路を清掃することを仕事としている人がいる。そのゴミを取り除くと、仕事としてやっている人の仕事を取ることになり、それらの人の失業問題に発展するという人もいます。しかし、感謝をしている私の散歩道です。外国の考えはどうであれ、日本は日本です。日本人の考えや文化で考えればいいことです。

公道が、わずかでも、ゴミが拾われてきれいになることは、たとえ手を加えられたというそしりを受けても、手を加えられたことによる、被害は全くなく、通る人に嫌な感情を起こさせないという意味では、人の幸福につながります。

他人の家に無断で入って、ゴミを拾うことは、ゴミを拾う前に、不法家宅侵入がありますので、ゴミを拾うと言えど、絶対に許されることではありません。無断侵入でなく、公道で、ゴミを拾うことは、間違いなく、散歩道への感謝のお返しにつながると思って、ゴミ拾いをスタートさせました。

ビニールの手袋と名古屋市指定のゴミ袋をもって、ゴミの回収から始めました。

やってみるといろいろなことに気が付きます。道端に放り投げてあるゴミをひとつづつ腰をかがめて拾うのは、年寄りには結構きついものです。ゴミをつかむあの長い道具、何という名前か、名前が思いつかないのでホームセンターに行って、「ゴミを掴む長いはさむもの」ありませんか?

ああ、「トング」ですね。イタリア料理のパスタをつかむものも、トング、ゴミをつかむ長いものもトング。

炭をつかむものは、「火ばさみ」「炭ばさみ」と呼ばれていて、ゴミをつかむものは、形状は、火ばさみに似てますが、ゴミばさみとは言わないのですン。パスタをつかむものも、ゴミをつかむものも、「トング」です。

ゴミをつかむ長いトングは、軽いゴミだと、掴みやすいのですが、ちょっと重たいゴミだと、非常につかみにくいのです。先端が逆方向にひっくり返るのです。言葉で説明しにくいのですが、トングを横から見ると、コの字型が先端がエックス型になるのです。

トングを少し加工して、ひっくり返らないようにして使っています。

ゴミも可燃物や、不燃物、粗大ごみとありますが、拾うゴミは、可燃物と、不燃物だけです。それを分別して拾うのも、ちょっとしたコツがあります。

粗大ごみは、道路の端に邪魔にならないように置いて、名古屋市の環境センターへ申し出て、回収をお願いすると、すぐではありませんが、その道路をゴミの回収車が通るときに、回収してくれます。

集めたごみをゴミ袋に入れて、車のトランクに入れて、家に持ち帰ります。乗用車ですから、トランクに乗せられるごみの量は大したことはありません。

ゴミ袋を残したまま、一度家に帰ってまた取りに来ます。

残したごみの中に、生ごみが入っていると、カラスは大したものです。引返す間にゴミ袋を破って、食い散らかし、ゴミが道路上に散乱しています。これらの生ごみは、たぶん腐ったものが多いので、食べたカラスは体をやられないのか、大丈夫なのかと、余計な心配と、人が離れる時の、ゴミの置き方を注意しなければならないと勉強させられました。

家に持ち帰ったゴミは、家庭のゴミと一緒に分別して出します。家庭ゴミは一袋に拾ってきたゴミは、10袋位あるときがあります。拾ってきたゴミは家庭ごみではないですが、決められたゴミ袋に入っていますので、ゴミの回収の方は、ちょっと、この家、あまりにもゴミが多いと奇異に感じていることとは思いますが、説明もしたこともなく、多い理由を聞かれたこともなく、多分、大目に見てもらっていると勝手に判断しています。

いっぺん大量のゴミを片付けると、いつも大量のゴミのポイ捨てがあるわけでもなく、普通は、レジ袋とゴミ拾いのトングをもって散歩に行くようになりましした。

これが私たちの散歩のときのスタイルとゴミ拾いのスナップです。

散歩のスタート時は、ゴミ袋は空なので、楽なのですが、少しづつゴミを入れていくと、少しづつゴミ袋は膨れて重たくなってきます。

でも散歩の途中に、季節季節で、色々は花も咲いています。上の彼岸花は、守山区大森北小学校の前に咲いていました。こういう季節ごとに咲いている花をが見れることは散歩の楽しみなのです。

散歩道に、あまりにもゴミのポイ捨てが多いので、「愛知県尾張建設事務所」の看板で、「ごみを捨てないで!!」とお願いの看板が最近立てられました。愛知県尾張建設事務所さんもしゃれたことをするものです。あまり費用をかけないで、ゴミのポイ捨てを止めるような啓発をしてくれたます。

でも、一番右の写真は、そのお地蔵さんの看板の目の前に、ゴミ袋が投棄してあります。日本人は、少なくとも、神や仏、お地蔵さん、弘法さん、阿弥陀如来の像には、祈念や敬意を覚えるものですが、その敬意を覚える対象の前で、平気でゴミを投げ捨てる心境は、およそ、日本人ではなりと思われます。もし日本人だったら、日本人の魂を無くしてしまったのかもしれません。

このゴミは、重すぎて、名古屋市指定のゴミ袋に入れて、持ち運べなかったので、後日、車で回収に行くつもりです。

散歩から帰ってくる頃になると、ゴミ袋はかなり膨れ上がり、手で持ち運ぶには、手が痛くなったり、筋肉が悲鳴を上げ始めるので、そこで、ゴミ拾いを止めて、帰路につきます。帰路についたころの格好です。

散歩中、このゴミ袋を手でもって、行くのは、大変なので、改善の必要があると思ってます。

また、可燃ごみと不燃ごみの両方のゴミ袋を持つか、同じゴミ袋に入れて、持ち帰ったら、可燃ごみと不燃ごみをあとで、分別する手間がかかります。

自動三輪車のような車で、後ろに荷台をつけて、ゴミを回収すれば楽でしょう。ただ、ゴミを回収するだけが目的でなく、初老になっている体を考えると、歩いて散歩することにも、意義があるのです。

この散歩と、ゴミ拾いの両方の目的を達成するために、ゴミを運ぶ道具を考えたいと思ってます。旅行用のキャリーバックを加工するか、スケボーを加工するか、子供用のスケーターを加工するか?

いまの頭の中では、子供用のスケーターを加工する方がいいのかと思ってますので、試作を作ってみて報告したいと思ってます。まず、キャリーバッグを加工して、作ってみました。

キャリアーにゴミ袋をひっかけられるようにしました。
ゴミを拾った状態です。

こうして、散歩道から教えられて、ゴミとの付き合いが始まり、ゴミのポイ捨ては、自然に対しての人間の不遜そのもので、このままにゴミを捨てて自然に押し付けると、自然から、とんでもないしっぺ返しを受けるような気になってきました。

人間の文明度は、ゴミのポイ捨ての量で決まるのではないだろうか?本当に文明が発達した国は、ゴミのポイ捨ては無いのではないだろうか?発展途上国できれいな国を見たことがありません。ゴミ山をあさって、金になるものを探している国はやはり文明度は低く、環境の汚いこと、汚い理由のほとんどがゴミ。

この後で、調べてみると、文明度とゴミのポイ捨てとは全く関係がないことが分かりました。

日本を世界一文明度の高い国にするためには、ゴミのポイ捨てが全くない国になることが一番の近道ではないかと思うようになりました。ゴミのポイ捨てと人間性とは密接な関係があるような気がします。
この後で、調べてみると、文明度とゴミのポイ捨てとは全く関係がないことが分かりました。 江戸時代にはゴミのポイ捨てがあったかどうか調べたところ、ゴミのポイ捨ては殆ど無いのです。

このゴミのポイ捨てと人間性については、カテゴリー「ゴミのポイ捨てと人間性」で詳しく考えてみたいと思います。

ゴミのポイ捨てのない国、これは、世界一きれいな国になります。それであれば、これは、立派な観光資源になりえます。世界の国から、街にも、村にも、ゴミが一つも落ちていない国、日本を、興味を持って見て回ってくれるのではないでしょうか?

散歩道に感謝することで、この考え方に至り、その実現に、微力ではありますが、行動を始めました。でも、ゴミを拾うことが目的ではありません。

ゴミを拾う団体や、グループがすでに日本国中で活動していますが、ゴミを拾うことによって、ゴミのポイ捨てをしない啓もうや啓発を続けて、ゴミのポイ捨てのない社会、道路や町や、散歩道、山道すべてにゴミのない世界を作ることが目的です。