スポーツゴミ拾い
ゴミ拾いもいろいろあるものです。
どちらかというと、街をきれいにしたい。ボランティアで社会奉仕をするんだという意識が多く、地域の気持ちのある人たちが集まって、グループ化したり、個人的に活動したりしてます。
何とかしたい、何とかせねばという気持ちで、ゴミ拾いをして、街がきれいになると、ゴミが無くなってキレイになったねーと共感し、そのきれいになったことが一つの満足感というか、結果に対しては、金銭的な満足感でなく、気持ちの満足感という報酬が期待できるのですが、ゴミ拾いの行為そのものは、そんなに楽しいものではありません。一つのボランティアでもあり社会奉仕にもなり、ゴミ拾いの苦労も甘受しているのですが、苦労を甘受するというネガティブな考えなく、ゴミ拾いの行為そのものをポジティブに楽しんじゃおうというゴミ拾いがあることを初めて知りました。
ゴミ拾いをスポーツ形式に工夫して、競争したり、ゲーム感覚で楽しんじゃおうということです。
素晴らしい考えだと思います。
スポーツゴミ拾いで、下記のサイトがありました。活発な活動をされているようです。
http://www.spogomi.or.jp/
このサイトのトップページに下記の画像があります。
色々な支部を持って、企業とのコラボレートも試みながら、活動されている様子が見て取れます。
そして、目標が自己否定のような言葉を使っているのですが、
「私たちは、このスポーツがこの世から無くなることを目指して活動を続けていきます」
自分たちの活動をしなくていいように、今の活動をしていくという、自分たちの存在は、自分たちが消滅するためにあるのだという、逆説的な言い方が面白いですね。
本心から、そのように思っているのか、どんな努力をしても、世の中から、ゴミは絶対になくならないという見方から、この逆説的な目標にしているか、聞いてみたいものです。
当サイトは、方法や、手段は全く問わず、ゴミ拾いをすることで、ゴミのポイ捨て、不法投棄をこの世から無くなるまで、自分たちの独善的な、利己主義に気付き、本来持つべき、人間の理性や、社会性が成長することを願って活動を続けたいと思ってます。
なぜなら、ゴミのポイ捨てや不法投棄は、良くないことと思って、分かってやっているわけです。自分の家では、ゴミのポイ捨てをしません。また、人の目が多いところでは、あまりゴミのポイ捨てをしません。人の目のない、人から変な目で見られない場所で、ポイ捨てをします。ポイ捨てをして場所が、どうなっても自分に関係ないからと。原因としては、理性や社会性を忘れ、環境に対する影響の知識もなく、他に対するやさしさ、環境に対する優しさを忘れた完全な利己主義に起因するものと思っているからです。
このスポーツゴミ拾いとは、多少趣を変えたゴミ拾いの個人・グループ(?)(愛知県長久手市在住の桑原さん)がありました。
クラウドファンディングで資金を集めているようですが、タイトルが「ゴミ拾いの常識を覆す!「ピックアップスケート」の日本展開へ!」とあって、何が常識を覆すかというと、スケート、またはスクーターでゴミ拾いの能率を楽に上げようとしているようですね。
このサイトのトップページに写真がありました。
(写真をクリックするとこのサイトにジャンプします。)
確かに、ゴミ袋をぶら下げて、ゴミ拾いをしているうちに、だんだん重たくなって、パンパンに膨れ上がったゴミ袋を持ち帰ることは、大変です。
手で持ち運ぶのではなく、キャリーバッグやスクーターにゴミ袋を乗せられたら、持ち運びが、ズーッと楽です。良いものを見せてもらいました。古いキャリーバッグを改造するか、スクーターを改造して楽にごみ拾いをするようにしてみたいと思います。
少しこのサイトを見てクラウドファンディングにすこし気になったことがあります。
クラウドファンディングで目標 50万円に対して58万1千円集まったと言われています。
クラウドファンディングとは、事業を起こして経営資源が欲しいときに、不特定多数の人に通常インターネット経由で、財源の提供や協力などを行うこと依頼することなので、事業として捉えているのでしょう。経営資源、通常はお金を出した人は、投資として考えていますので、事業が成功した暁には、事業を起こした人からのリターンを期待しています。ただ単に親からもらった返済不要のお金とは性格が異なります。
このクラウドファンディングで、お金を集めているということは、ごみ拾いを事業すなわちビジネスとして考えているようです。
面白い発想ではあります。このビジネスは、ごみ拾いに、少し仕掛けがあるようです。
その仕掛けは、ごみ拾いの行為を宣伝媒体として、広告収入を得ることをビジネスとしているようです。
ごみ拾いの行為の時に、企業や商品の旗や看板を目立つように掲げたり、張り付けたりして、ごみ拾い行為を見る人たちに、企業名や、商品名を訴求することで広告収入を得るというビジネスモデルです。
ごみ拾い行為と広告媒体を結び付けたところがユニークな発想です。
一般的な印象としては、ごみ拾い行為は、無償のボランティア精神の発露で、崇高な行為という印象があります。
このボランティア精神に終わらせることなく、ビジネスと結び付けていることがユニークなのです。
ただ、ビジネスとして捉えると、どうしても利益を出さなくてはなりません。この場合は、どうしても広告収入を、拡大発展させようとする力が働きます。資本主義の原理ですね。
そうすると、三つの疑問が出てきます。
一つ目は、ボランティアのごみ拾いとの関係です。ボランティアでごみ拾いをしている人たちが街をきれいにして、ゴミが無くなってしまったら、すなわち拾うごみが無くなったらどうするのでしょうか?
ここで思い出すのが、日本のサッカーチームが海外で試合をした後で、サポーターたちが、ごみ袋を持って自分たちの出したゴミを拾う場面です。崇高なボランティア精神、日本のスピリッツと評価するメディアが多いのですが、一面では、サッカーのサポーターがサッカー場のゴミを拾うべきではない、そこには、ゴミを拾うために雇われた清掃員がいるので、清掃員に任せるべきだ。サッカー場の清掃員の仕事をとるべきではない。清掃員の仕事をとって、失業させるべきでないという、およそ日本人では考えられない見方をする外国人がいることも事実です。ゴミが無くなったら、清掃員には、別の新しい仕事を与えればいいのですが、その考えには至りません。まさに外国と日本の文化の違いです。
話は戻って、ボランティアのごみ拾いで街がきれいになったら、このビジネスモデルはどうなるのでしょうか?
自分たちのビジネスのエリアで、ボランティアの人たちが街をきれいにして拾うべきゴミが無くなったら、そこでは、広告宣伝の活動ができなくなります。その場合には、ボランティアの人たちあるいはグループに対して、自分たちの仕事の邪魔をするなという敵対的な考えになるのでしょうか?
2つ目としては、ボランティアに対して敵対的な見方をすることなく、友好的な見方であれば、ごみの無くなった街を、ごみを拾う格好を見せて、広告収入を得ようとするのでしょうか?
ゴミを拾う行為は、それを見せるだけで、一般の人には、崇高なボランティア的な行為と映ります。実際にごみを拾っているか、拾っていないか、どれだけの量のゴミを拾ったかという効果に関係なく、崇高な行為と映ります。
実際には、ゴミを拾っていないにも関わらず、拾っているような行為を見せることだけで、広告収入を得ようとするのでしょうか?
三つめは、現実、ボランティアで、日本全国津々浦々、ごみ拾いができるものでもありません。きれいになった街でなく、まだ、ボランティアのごみ拾いが行き届かない、ごみの多い街へ、ビジネスの領域を移していくのであれば、実際にごみ拾いができるので、行為とそれを目にする人たちの印象とのミスマッチングが無くなります。
このビジネスモデルが、面白いユニークな発想だけに、成功して、投資家たちへ、しかるべくリターンができることを期待しますが、資本主義の社会では、ビジネスはどうしても、利益追求になりがちになります。これは、最近の上場会社のガバナンスが行き届いていると思われている大企業といえど、信頼を維持向上させることよりも、利己主義に走り、目先の利益を追求するあまり、検査データのねつ造、決算書のねつ造、ユーザーの信頼を裏切る事件の多いこと。例の枚挙にいとまがありません。
日本の基幹産業を支える、製品にも検査データのねつ造です。原子力発電所、各種発電所、新幹線、航空機、船舶、道路、橋梁、これらの信頼性にまで、影響するような製品に検査データのねつ造です。信じられませんが、事実です。
まして、ガバナンスなんて聞いたこともないという小企業や、個人では、利益追求のあまり、利己主義が先走り、良識や手段を誤ることが多いのも事実です。正当な利益追求は、当然の権利です。社会の信頼を裏切って、利益追求に走る利己主義が問題なのです。
ゴミ拾いを効率的にやるのも一つの方法、多くの人に参加してもらって、共感者を増やしていく行くことも大切。ごみのポイ捨てを無くしていくためには、ゴミを効率的に拾うよりも、共感者を増やしたり、取り締まりを強化する方が、目的に合っているような気もしますが、ゴミ拾いの活動がどういう方法であれ、増えることは歓迎すべきことだと思いますが、このビジネスモデルが成功することを期待する半面、私の疑問の一つ目と二つ目の経営戦略を選択されないことも期待しています。
このビジネスモデルに興味のある方は、こちらをご覧ください。