【中国地方】平成30年7月豪雨災害に思う
平成30年7月に記録的な大雨で、西日本各地では死者・行方不明、土砂に巻き込まれる人が相次ぎました。7月14日現在、読売新聞のまとめでは、豪雨による死者は13府県で200人となり、行方不明者は4県で48人。死者・行方不明が299人に上った1982年の長崎大水害以来の被害となった。断水世帯数は依然として20万戸を超え、広島、岡山両県を中心に5946人が避難所に身を寄せている。4年前にも大規模な土砂災害があった広島は続けて、土砂災害に見舞われています。
その後の酷暑にもかかわらず、多くのボランティアが入って復旧の手助けをされています。その尽力に深い敬意と感謝を表し、被害者の皆様には、お悔やみと、お見舞いを申し上げます。
8月に入っても酷暑が続いています。その酷暑の中で、ボランティア活動をされている皆さんには、本当に頭の下がる思いですが、どうぞ熱中症には十分に気を付けてください。
広島の土石流による家の崩壊
1982年の長崎の大水害を調べると(ウィキペディアより)
長崎市内では23日夕刻までの小雨模様が急変し、夕食や帰宅時間帯に100mm前後の猛烈な雨が集中。長崎海洋気象台は、雨脚が強まる前の16時50分には大雨警報を発して厳重な警戒を呼びかけたものの、折悪しく連日の警報に慣れた市民の多くは事前に対策を講じることなく、市民生活を完全に麻痺させた。また、斜面都市としての長崎市の特性が災いし、「水害」の名とは裏腹に土砂災害による犠牲が溺死者を大きく上回ったのが長崎大水害の特徴で、長崎市内の死者・行方不明者299名のうち、およそ9割にあたる262名が土石流や崖崩れによるものであった。 雨の降り方は激烈を極め、夜間、停電という悪条件が重なり、住民の避難の足が鈍っていたところを、短時間での冠水により、車やバス、電車の立ち往生、橋梁流失や土砂災害による交通寸断が短期間に起こり、なすすべがなかった。通信の輻輳や寸断で行政当局に救助を求める通報すらままならず、通報を受けた行政側も救援思うに任せず、被害は拡大していった。(長崎風景) このような災害が、数十年に一度の豪雨により、災害は避けることができなかったという風潮に、それは本当だろうか?天才だから仕方がないと片付けていいものか、疑問が湧いてきています。 長崎地方の土の質を調査したものがあります。 地質調査所の佐世保地域の地質 詳細はこちら(PDF) この地質の報告書は、驚くばかり詳細です。これほど、地道に調査をされていたことに驚嘆します。住宅地を開発するときに、これらの地質の調査書が活用されることはあるのでしょうか?これらの地質調査から、調査した地質専門家や、または、この関係の専門の大学の先生は、行政に対して適切なアドバイスや指針があるのでしょうか? これらの地質の専門家は、調べてその特徴は、十分理解して、危険性も把握しているが、行政からの問い合わせがなかったので、危険と思われる場所に団地が作られることを知りながら、声をあげなかったことは無いのでしょうか? もしこういうセクショナリズムがあるとすれば、それを今後どうやって改善していくのかを議論していく必要があります。 長崎の大水害の後で、新たに開発される団地は、山の斜面や中腹でなくて、高台の一番上に建てられることが多くなっていると感じています。この傾向については、長崎の都市開発の行政に確認すればいいのですが、今回は、確認をしていませんので、明確に申し上げられませんが、標高100m位で、高台に行くまでに、上り道を上がっていかなければなりませんが、なだらかな高台であれば、高台の一番上に建てられた団地は、土石流で家がつぶされる恐れもなく、安全です。 長崎の大水害の教訓を生かしているのではないかと推測しています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 一方、2018年8月1日 中日新聞から専門家の記事がありました。 新聞の画像は文字が読みにくいので、下記にテキスト文にしました。 2018年8月1日 中日新聞
西日本豪雨で同時多発 まさ土崩れ巨石流人・住宅地の被害拡大 七月の西日本豪雨で百十四人の死者と行方不明者を出した広島県は、土砂崩れの同時多発的な発生が被害を拡大させた。花崗岩の地質が広がる山間部は地盤がもろく、風化した砂状になった「まさ土」と「コアストーン」と呼ばれる巨大な石の層が表面から崩れ落ちる「表層崩壊」が土石流の原因となった。(天田優里) 十二人の死者を出した広島県熊野町の川角地区。住宅街には豪雨から約二週間がたった七月半ばになっても、土砂やがれきが残っていた。二階建ての住宅は一階部分がえぐられ、リビングが丸見えに。近くには直径二メートルほどの巨石がいくつも転がっている。コンクリートの坂道はひび割れた部分から水が噴き出し、押しつぶされた車が土石流の威力を物語る。川角地区の一部は八月を迎えても立ち入り禁止が続いている。 同地区に住む主婦の西谷真弓さん(四二)は、土砂が崩れた痕跡が残る近くの山を見つめながら「ゴオオオオとすごい音がして土臭かった。ただ事でないと感じた。近所の人たちと声を掛け合い、避難所に逃げたが、「少しでも遅かったらと思うと・・・」と振り返る、 まさ土が広く分布する広島県では二〇一四年八月の広島土砂災害でも七十七人が犠牲になった。 広島大学院総合科学研究科 海堀正博教授(砂防学)は「今回は雨の量が多く、傾斜が緩い場所でも土砂が崩れた。 コアストーンが住宅地に流れ込んだのも被害を大きくした一因だ」とし、「花崗岩地質の地域に住む人はたとえ空振りになっても、大雨の際は早めに避難してほしい」と呼び掛けている。 まさ土とコアストーン まさ土は花こう岩でできた山が風雨にさらされ、雨水が浸透して亀裂が入るなど風化が進んで できる、風化しなかった花こう岩の塊は、ブロック状の巨大なコアストーンとして残る、 西日本豪雨では、巨石とまさ土が交じった山の斜面が一気に崩れる表層崩壊が、多くの地域で起きたとみられる。ここで、改めて、「花崗岩の地質が広がる山間部は地盤がもろく、風化した砂状になった「まさ土」と「コアストーン」と呼ばれる巨大な石の層が表面から崩れ落ちる「表層崩壊」が土石流の原因となった。」と解説されていますが地質調査所の広島地域の地質のデータがあります。リンクが張ってありますので、ご覧ください。 地質調査所の広島地域の地質(PDF) この調査内容は、あまりにも学識的、かつ専門的なので、素人には、理解しがたい点が多いが、広島の花こう岩については、詳述されています。これらの災害に関する影響については、地震災害に触れているものの、豪被害については、詳述されていません。 しかし、災害普及の時に、堆積している土を見ると、ザラメ状になったいわゆる「まさ土」で、非常に崩れやすいのは、砂遊びをした人であれば、容易に想像できます。この「まさ土」は花こう岩が風化してバラバラになったもので、バラバラになる前の石が残っているのが「コアストーン」と呼ばれるもので、砂の中に石が混在していても、石同志が連結していなくて、石と石の間に豊富に砂があれば、崩れやすい。 砂遊びで、上から水をかけた時に、簡単に崩れる。海岸での砂遊び一回波をかぶれば、溶けるように崩れていきます。このような風化が進んだ花崗岩の山は、崩れやすいということを経験より感じられるのではないかと思うのです。遊びや体験から学んだ皮膚感というのは、大切だと思います。 土砂災害の恐れ最多3県は中国地方 広島・島根・山口(朝日新聞デジタルよりの引用)
中国5県には土砂災害に弱い地質が広く分布する。崖崩れなどで人家に被害が及ぶ恐れのある「土砂災害危険箇所」数は広島、島根、山口の順に、全国で「ワースト3」を占め、大きな災害も目立つ。 危険箇所が全国最多(約3万2千カ所)の広島。山地が多く弱い地質で覆われているうえ、山すそまで宅地が広がったのも原因だ。土砂災害防止法は、広島市などで起きた1999年の「6.29豪雨災害」を機に制定された。 島根は県土の約8割が険しい山地。花崗岩(かこうがん)が風化した脆弱(ぜいじゃく)な土が東南部を中心に広く分布する。「昭和58(1983)年災害」では死者・行方不明者107人中、8割が土砂災害による被害だった。 山口は、22人(関連死を含む)が犠牲になった2009年の豪雨災害の記憶も新しい。専門家によると、被害の大きかった防府市は、山の表層に数メートル堆積(たいせき)した砂状のまさ土(ど)に、短時間に降った強い雨が浸透して山が崩れたとみられる。 鳥取は中国山地から日本海までの距離が短く、山裾がそのまま海へ続く場所も多い。山間部の雨が下流域へ達するのも速く、土砂災害が多発する。東部は地滑り、中部は表層崩壊、大山の火山灰が積もる西部は土石流が起こりやすい地質。 岡山にも崩れやすい花崗岩の層が広がっている。約1万2千の危険箇所のうち、約6千カ所には5戸以上の人家があるが、斜面の補強など対策の整備率は、26.4%(2011年度末)にとどまる。テレビで災害の状況を見ると、斜面に沿って家が立ち並び、山側から海側に行く道路に川のように濁流が流れています。水面がだんだん上昇するという浸水ではありません。道路がまさに川になっているのです。ほんとうの川もあるのでしょうが、このような「まさ土」は普通の雨でも、山から少しづつ流されて川の中に堆積しているのではないでしょうか? 川の中で堆積すると、川の容量が小さくなります。川の堆積土を浚渫してやらないとだんだんと川の機能をうしなっていきます。土石流の恐れがあると言って、予算を取って、山の中に砂防堰堤を作ってあるかもしれません。しかし、「まさ土」が流れ込む川の砂防堰堤は数年で満杯になって全く用をなさなくなります。 このような、脆弱な土質の所に山側をどんどん開発して、住宅地を作ったことは、地質研究所の地質のデータを見たうえで、決められたことでしょうか?また、この地区に、昔から住んでいいた、農家や林業の人たちの皮膚で感じている山に対する恐れや、危機感に耳を傾けたのでしょうか? 過去に大災害を受けた人たちからの教訓があります。 宮古・姉吉地区 石碑の教え守る <4月10日・河北新報>
明治三陸大津波(1896年)で60人以上が死亡し、生存者は2人だけ。昭和三陸津波(1933年)では100人以上が犠牲になり、 生き残ったのは4人。2度とも壊滅的な被害に遭った。 石碑は昭和三陸津波の後、住民の浄財によって建てられた。———————————————— ここで、山が迫っている田舎の家を見てください。 後ろに山が迫っている田舎の家です。こんなに山が迫っているのに、がけ崩れや、土石流などの被害の恐れはないのか聞いたところ、ここら辺の部落は、江戸時代から続いていて、山が崩れるとか土石流で被害を受けることは無かったということでした。 これらの家も、いつ作られたかよくわからない位古く、爺さんのそのまた爺さんの時代に建てられたという話だそうです。何代にも渡って災害を受けることなく、維持できていることは、その間に、何回もの豪雨に見舞われているはずです。それでも、災害を受けなかったということを、科学的に考えると、山がそんなに深くないか、山の土の質が関係していると思いますが、少なくとも戦後、経済発展とともに旧の住宅地から山側に開発していった団地ではありません。 住宅地の需要に任せて、山の高さ、深さ、そして詳細に調べられた土の質をよく検討しないまま、昔から住んでいる人たちの声に耳を傾けないままに、開発をしていったデベロッパーや開発の許可を与え続けていた行政を、見直すべきことはないのでしょうか?山を削って開発するときの、条件等を、過去に例を見ない豪雨のせいにしなくて、謙虚に見直す時ではないでしょうか? 自然は私たちに、優しく、豊富な恵みを与えてくれる一方、理不尽なまでに、残酷なこともします。感謝とともに、非常に怖いものです。人間の都合だけで、自然を御しようとすることが恐れ多いことで、恐る恐る、自然へお伺いを立てながら、自然の領域へ人間の領域を広げさせていただくという、謙虚な姿勢が必要だと思います。それでも、自然は怒り狂って、人間に襲い掛かってくるかもしれません。しかし、謙虚な姿勢を持って自然に対峙すれば、その怒りは最小限で済むような気がします。 また、大きな災害があったあとで、自衛隊の救助や、ボランティアの活動に目を奪われますが、その活動には、感謝のしようもありませんが、救助やボランティアの美談に終わらせることなく、災害が最小限になるような方策を災害から学ばなければ、人身御供は無くならないような気がします。