表現の自由の大いなる錯覚

2019年8月7日中日新聞の社説です。

脅されたのは、社会の自由だ。国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展が中止に追い込まれた。脅迫文が届くなどしたためで、まさに、「表現の不自由」を象徴する恐ろしい事態である。

「不自由展」中止(社会の自由への脅迫だ)
 あいちトリエンナーレは、愛知県などでつくる実行委員会が三年に一度開いている。四回目の今回は、県美術館(名古屋市)などを舞台に、今月一日に始まった。
問題となったのは企画展「表現の不自由展・その後」。過去に国内の美術館などで、展示を拒否された美術作品を集め、経緯を伝える解説とともに展示した。
だが、旧日本軍の慰安婦を象徴する少女像などの展示の内容が報じられると、抗議の電話やメールが相次いだ。「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」という脅迫文さえ届き、三日で、中止となった。
参加した芸術家から「作品を見る機会を人々から奪う」などとして、中止を批判。する声があるのはもっともだ。だが、スタッフや来場者の安全を考えた上での苦渋の決断だったろう。この上は速やかで徹底した捜査を求めたい。
芸術監督のジャーナリスト・津田大介さんは「表現の自由が後退する事例を作ってしまった」と悔やむ。しかしこの国の表現の自由を巡る現状や「意に沿わない意見や活動は圧殺する」という風潮を白日の下にさらしただけでも、開催の意義はあったといえよう。
 河村たかし名古屋市長は「日本国民の心を踏みにじる」として少女像の撤去を要請。菅義偉官房長官も、国の助成金交付について慎重に検討する考えを示した。
これは、日本ペンクラブが声明で「憲法が禁じる『検閲』にもつながる」と厳しく批判したように、明らかな政治による圧力だ。
政治や行政のトップは多様な意見や表現を尊び、暴力的行為を戒める立場にある。美術家の活動よりもテロ予告を強く非難するべきだろう。
 国の内外を問わず、政治家による排他的は発言が「お墨付き」となりヘイト犯罪など昨今の極端な言動の下地になっているとすれば、憂慮すべき事態だ。

現代のアートは、単に花鳥風月をめでるものでもない。世界に存在する対立や危機、圧政や苦難を見る者の反発も覚悟で広く伝え、対話や解決の糸口を生んでいる。
それを理解せずに「美術展を政治プロバガンダの場にするな」などと非難しても筋違いだろう。美術家や美術展の関係者は、決して委縮してはならない。

ご存じのように、我が国には、憲法で、表現の自由が保障されています。
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

中日新聞の社説を見ると、「表現の自由」という観点からしか見ていなくて、「検閲」「政治による圧力」と国民の権利を侵されたごとく、非難しています。
ここで、根本的な、本質を考えてほしい。憲法21条は、国民の権利を規定してあるのであって、政治や、権力側に表現の自由を保障しているものではない。権力側には、「検閲」を禁止しています。

権力側、すなわち国家権力に「表現の自由」を与えた結果、国家権力は、巧妙に国民をあおり、欺き、非残な戦争へ突き進んだ歴史をよもや忘れたわけではないでしょう。
大本営発表なるものが、いかに嘘インチキだったか、国家権力が「表現の自由」と「検閲」を己の都合がいいように使って、300万人以上の日本国民の命が奪われ、1000万人にもおよぶ、東南アジアの人々の命が奪われた歴史を、まだ、100年も経過していない近代の歴史を、社説を書くような、知識人が知らないわけがないでしょう。
日本ペンクラブに所属している人々も、一般人に比べ、学識・教養もあり、知識人とも言われていますが、こと「表現の自由」となると、誰が表現しているかという根本的な視点が抜け落ち、国家権力の乱用とか、検閲にあたるとか非難の声をあげています。
もちろん、「ガソリン缶を持ってお邪魔する」等の脅迫は、ことの是非を議論するに値せず、表現の自由でなく、脅迫、テロに値するものとして、即刻、捜査、逮捕し法律にのっとり、処罰を与えなければなりません。
 その後のニュースに、憲法学者まで、集団で、「検閲」になるものとして抗議の声を上げるに至っては、国民の表現の自由か?権力側の表現の自由か?さえも見極めがつかなくなった、本質が見極められなくなった浅はかさに、どのように表現していいか、悩んでしまいます。
ここで、明確にしておかなければならないことは、
国家権力や権力側に表現の自由はありません。
国家権力や権力側の表現は、不偏不党、公正、公平、国民の福祉や平和を増進するものでなくてはなりません。宗教的に偏った表現も禁止されています。当然、排他的な発言も許されません。権力側には、厳しく表現の自由が規制されています。権力側の公務員にすら、政治的発言、宗教的発言、公正公平さを欠く意見は許されていないのです。しかし、国や、権力側は、国民が発信する表現の自由は、守らなければなりません。これを犯すことはできません。
今回の、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展は、愛知県、名古屋市の主催によるものです。税金が使われています。権力側の主催です。
過去に国内の美術館などで、展示を拒否された美術作品を集め、経緯を伝える解説とともに展示したいのであれば、自費にても展示すれば良いのです。これに対して、権力側は、検閲も禁止されており、表現の自由も保証されてます。税金を使わず、芸術家たちの意思や費用で、慰安婦を象徴する少女像を、許された場所で、何体設置しても、なにも咎められることなく(社会的は評価は別にして)表現の自由は、保証されます。
菅義偉官房長官も、国の助成金交付について慎重に検討するとコメントを出していますが、これを政治による圧力と解釈している向きもありますが、権力側に表現の自由は無いと理解すると、コメントが圧力でなく、権力側の自省を込めての内容と受け取るべきでしょう。
最後に、社説でも、日本ペンクラブでも、法律家のコメントでも、「検閲」と声高く「検閲」は絶対に許さない論調ですが、検閲は権力側が表現の自由を束縛する言葉であり、今回の権力側が、権力側の発信する内容に、公正・公平さを欠いたことを自覚して、取り下げることは、「検閲」には当たらないと思います。
時として、権力側もいろいろな場面で、発信するものがあります。行政として、発信しなければならないものもあるでしょう。その発信する内容が、著しく、公正・公平・国民の感情に問題があった場合は、自省をして発信する内容を取り下げたものであり、検閲ではなく、当然の行為と言わざるを得ません。
信頼性の高いと言われる社説や、専門家と思しき人々のコメントも、その内容を、そのまま鵜呑みに受け取る危険がいかに怖いかという典型的な事例と思います。
物事の本質をいつも考えて、自分の意見を持ちたいと思います。

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